奪うことあたわぬ宝 山本 弘 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)妖精《ようせい》と見まがう |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)無理|難題《なんだい》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#改ページ] -------------------------------------------------------  その夜、「岩の街」ザーンの空には、美しい真円の月が煌々《こうこう》と輝《かがや》いていた。  月が無《な》ければ、天空《てんくう》いっぱいに壮大《そうだい》な晩夏《ばんか》の星座《せいざ》が広がっていたはずだが、天頂《てんちょう》に昇《のぼ》りつめた満月は天界の女王として君臨《くんりん》し、その白く高貴《こうき》な輝きで夜空を満たして、他の星々が美を競《きそ》うことを許《ゆる》さなかった。綿《わた》の切れ端《はし》のような雲がいくつもちぎれ飛び、風に流されて時おり月の前を横切るが、その光を完全にさえぎるほどではない。  その明るい月光の下、ザーンは夜の繁栄《はんえい》を謳歌《おうか》していた。高さは人間の背《せ》の一〇〇倍、横幅《よこはば》はその何倍もある、テーブル状《じょう》の岩山をくり抜《ぬ》いて造《つく》られた半地下都市——その内部には数千人が居住《きょじゅう》しており、厚《あつ》い岩の壁《かべ》に守られて、安全で快適《かいてき》な生活を保障《ほしょう》されている。すでに真夜中だというのに、岩壁に穿《うが》たれた何百という窓《まど》の多くからはまだ明かりが洩《も》れていた。耳をすませば、壁の向こうから陽気なさざめきが聞こえてくるはずだ。  もっとも、明かりのついた窓は岩山の下半分に集中している。上部に行くほど居住者は減《へ》り、窓も少なくなる。昼間は赤茶けて見える岩肌《いわはだ》は、月の光を浴びて灰色《はいいろ》と黒のまだらに染《そ》まっていた。雲がゆっくりと空を流れるにつれ、岩山の表面に落ちたまだら模様《もよう》も刻々《こつこく》と変化する。  その夜、岩山の頂上《ちょうじょう》に近い北側の斜面《しゃめん》に、二つのちっぽけな人影《ひとかげ》がうごめいていた。岩山に比《くら》べるとあまりにも小さく、巨人《きょじん》の背中にしがみついた蝿《はえ》のようだ。今しも、岩肌を這《は》う大きな雲の影のひとつが、彼らの上に覆《おお》いかぶさろうとしていた。  急|傾斜《けいしゃ》の岩壁を黙々《もくもく》と這い登っていたサーラは、次の突起《とっき》に手をかけようとして、急にあたりが暗くなったので、はっとして顔を上げた。縁《ふち》を白く輝かせた雲が、月の表面を横切ってゆくところだった。  月光が弱まると、岩の表面の微妙《びみょう》な凹凸《おうとつ》が見えにくくなる。サーラは動きを止め、目が暗さに慣《な》れるか、雲が通り過ぎるのを待った。蜂蜜《はちみつ》色の髪《かみ》が額《ひたい》に貼《は》りついていた。夏の夜風が優《やさ》しく少年の背中を撫《な》で、汗《あせ》ばんだシャツを通して体温を奪《うば》う。もう十数分も登り続け、少し疲《つか》れてきたところだったので、休憩《きゅうけい》にはちょうどいい機会だった。  ところが上を見ると、先行しているもうひとつの人影は、ためらいもせずに登り続けているではないか。 「デル……」  サーラは小声で呼びかけたが、少女には聞こえなかったのか、猿《さる》のように身軽な動作で登り続けている。まだ若《わか》いが、「英雄《えいゆう》」と称《しょう》された盗賊《シーフ》ギルド幹部《かんぶ》バルティスの遺児《いじ》だけあって、天才的な盗賊《シーフ》の素質《そしつ》に恵《めぐ》まれている。  二人の間隔《かんかく》はたちまち離《はな》れていった。頂上に近づくにつれ、斜面はすこしずつ湾曲《わんきょく》し、ゆるやかになる。サーラがやきもきしながら見守っているうちに、デルの姿はその湾曲の向こうに隠《かく》れ、見えなくなった。 「無茶《むちゃ》するんだから、もう……」  サーラはぼやきながらも、少女の後を追って、登攀《とうはん》を再開《さいかい》した。今さらながら、恋人《こいびと》が気まぐれで思いついた冒険《ぼうけん》につき合ってしまったことを後悔《こうかい》していた。  岩の傾斜は約六〇度というところか。盗賊《シーフ》ギルドの訓練で何百回も登らされた垂直《すいちょく》の岩壁に比べれば、ずいぶんと楽だ。手がかりになる突起や割《わ》れ目もあるし、身体《かちだ》をしっかり密着《みっちゃく》させているかぎり、摩擦《まさつ》で支《ささ》えられ、落下することはまずない。  だが、サーラが慎重《しんちょう》になるのには理由があった。第一に、訓練と違《ちが》って命綱《いのちづな》がない。第二に、訓練に使われる岩場はずっと下の方だが、ここは岩山の頂部に近い。もしも手を滑《すべ》らせれば、はるか下の地上までえんえんと転がり落ちてゆくことになる。  人は死の直前、人生で体験した出来事をすべて思い出すという——サーラは岩壁と格闘《かくとう》しながら、その話をふと思い出し、素朴《そぼく》な疑問《ぎもん》にかられた。自分の人生はわずか十二年と八か月。地表に激突《げきとつ》するまでの間に、すべて回想し尽《つ》くしてしまい、残り時間を持て余《あま》すのではなかろうか? 「……おっと、いけない」  サーラは自戒《じかい》した。危険《きけん》な作業をやっている最中は、全|神経《しんけい》をその作業に集中せよ、と教えられていた。余計《よけい》なことを考えるのは事故《じこ》の元だ。  だが、何も考えずに作業に没頭《ぼっとう》するというのは、意外にむずかしい。厄介《やっかい》な状況《じょうきょう》に身を投じているのだから、なおさら迷《まよ》いも生じる。数分もすると、少年の思考はまたふらふらとさまよいはじめた。  デルと知り合ったのは一〇か月前、サーラが冒険者を目指してこの街にやって来た日の翌日だ。それからしばらくして、ある事件がきっかけで、二人は親密な関係になった。  彼女は他の人間の前では極端《きょくたん》に内気で無口だが、その反動からか、サーラに対してはひどく積極的で、わがままに振《ふ》る舞《ま》う。無理|難題《なんだい》をふっかけたり、何かを買えとねだったりする。どこに行くのにもつきまとい、人目のないところではべたべたとくっついてくる。それに対して、少しでも嫌《いや》がるそぶりを見せたら、彼女は悲しげな表情《ひょうじょう》を浮《う》かべ、必殺の台詞《せりふ》を口走る。「私のことが嫌《きら》いになった……?」——その言葉はサーラの胸《むね》にずきりと突《つ》き刺《さ》さる。彼は慌《あわ》てて「そんなことあるわけないだろ」と笑い、しぶしぶ彼女のわがままにつき合ってやる……。  最初のうちこそ、恋人を持てたことを誇《ほこ》りにしていたサーラだが、つき合いはじめて九か月にもなると、さすがに欠点も鼻についてきた。理想の王子様の役割が重荷になってきた、と言うべきか。何しろデルときたら、自分が何か願いを口にすれば、サーラは必ずそれを叶《かな》えてくれると思いこんでいるのだ——実際《じっさい》、その通りなのだからしかたがないが。  少し甘《あま》やかしすぎたかもしれない、とサーラは思う。悲惨《ひさん》な過去《かこ》を持つ少女の心は、ガラスのようにもろく、傷《きず》つきやすい。愛情に飢《う》え、愛情を裏切《うらぎ》られることを恐《おそ》れている。彼女の心を壊《こわ》すことを恐れるあまり、サーラは彼女の要求を決して拒絶《きょぜつ》せず、文句《もんく》を言わずに従《したが》ってきた。その結果、彼女のわがままはどんどんエスカレートし、ついにはこんな無謀《むぼう》な冒険にまでつき合わされるはめになったのだ。 「くそ、今度、デルが何かわがままを言ったら、絶対《ぜったい》に断《こと》わるぞ……」  岩壁を登り続けながら、サーラは自分のお人好《ひとよ》しさに腹《はら》を立てていた。 「そうとも、断わってやるとも……今度は、絶対に……!」  いつの間にか、傾斜はかなりゆるくなっていた。それまでは蛙《かえる》のように岩壁にへばりついて登っていたのだが、今や腹を岩壁から離し、膝《ひざ》をついて登ることができる。顔を上げると、すでに岩壁の終わりが見えていた。岩山の頂部は森になっている。暗い樹々《きぎ》の壁を背景《はいけい》に、すでにたどり着いているデルが手を振っているのが見えた。  サーラは気力を振り絞《しぼ》り、最後の数十歩をよろめきながら登った。デルが手を貸して引っ張《ぱ》り上げてくれた。 「だいじょうぶ?」 「う……うん」  顔を上げ、彼女の顔を見たとたん、サーラがついさっきまで抱《いだ》いていた不満は、いっぺんに吹《ふ》き飛んでしまった。  月明かりの下で見るデルは、いつもよりいっそう美しかった。  初めて会った時、少年と見間違《みまちが》え、「変な子だ」という印象を抱いたのが嘘《うそ》のようだ。特にこの半年ほど、女性《じょせい》としての成長が著《いちじる》しく、その変貌《へんぼう》の速さは驚《おどろ》くべきものだ。その顔からは子供《こども》時代の中性的な印象が薄《うす》れ、大人の女へと脱皮《だっぴ》しかけている。漆黒《しっこく》の髪は肩甲骨《けんこうこつ》に垂《た》れるほど長くなり、背も伸《の》びた。体にぴったり合った黒いシャツとズボンは、かつてはひどく野暮《やぼ》ったいものに見えたのだが、最近はその下に隠された体の線がうかがえるようになり、どきりとさせられることが多い。  盗賊《シーフ》ギルドの練習生たち——サーラと同じ世代の少年たちも、以前はデルを白い目で見ていた。いつも男のような格好《かっこう》をして、口数が少なく、表情が読めないものだから、「変な女だ」「気持ち悪い」とささやき合っていた。だから、「女みたいな顔」のサーラと恋仲になったと知っても、「変な奴《やつ》同士、お似合《にあ》いだぜ」と揶揄《やゆ》するばかりだった。しかし、最近になって彼らも、ようやく自分たちの間違いを悟《さと》りはじめた。デルが今まさに花開こうとしている大輪の花であることに気づき、羨望《せんぼう》のまなざしを向けるようになった。  ざまあ見ろ、とサーラは思う。今ごろ自分の審美眼《しんびがん》の欠如《けつじょ》を恨《うら》んでも遅《おそ》い。デルはすでにサーラにぞっこんで、他の男など眼中にないのだ。  サーラは少女と並《なら》んでその場にへたりこみ、呼吸《こきゅう》を整えながら、あらためて周囲を見回した。そこは森と岩場の境界《きょうかい》だった。崖《がけ》の縁に沿《そ》って樹々がびっしりと植えられ、黒い壁《かべ》となってそそり立っている。柵《さく》や塀《へい》の類《たぐい》は見当たらない。こんなところから誰《だれ》かが侵入《しんにゅう》してくるとは考えなかったのだろう。  とうとう来てしまった——サーラは興奮《こうふん》を抑《おさ》えられなかった。来られるはずのない場所、ついこの間まで来ようなんて夢《ゆめ》にも思わなかった場所に、今、自分は足を踏《ふ》み入れているのだ。  それはここ二世紀あまり、ザーン市民が誰も思いついたことがないか、思いついたとしても実行する勇気がなかった冒険である。岩山の頂上は王族の所有する庭園であり、ごく一部の者しか出入りを許《ゆる》されない禁断《きんだん》の地なのだ。許可《きょか》無く足を踏み入れた者は、見つかれば首を斬《き》られる。成功しても何の見返りもないのに、誰がそんな危険を冒《おか》すというのか。  もっとも、まだ首を斬られた者はいない。庭園ができて二世紀半、忍《しの》びこんだ者は一人しかおらず、その男は見つからずに戻《もど》ることができたからだ。  伝説の盗賊《シーフ》「孤独《こどく》なカモメの」イオド。  この庭園には、そのイオドが遺《のこ》した財宝《ざいほう》があるかもしれないのだ。  サーラが初めて「イオドの奪《うば》うことあたわぬ宝《たから》」の伝説を耳にしたのは、つい一週間前、例によって冒険者《ぼうけんしゃ》の店 <月の坂道> のカウンターでたむろしていた時のことだ。 「�あたわぬ�って何さ?」  最近になってようやく字が読めるようになった十二|歳《さい》の少年には、古臭《ふるくさ》い文学的表現は少し難《むずか》しかった。 「奪えないってことよ」  吟遊《ぎんゆう》詩人でもあるハーフエルフのフェニックスが、やさしく解説《かいせつ》してくれた。夕陽《ゆうひ》のように赤く長い髪《かみ》が印象的な彼女は、とても上品で、普段着姿《ふだんぎすがた》だと冒険者には見えない。 「年老いて引退《いんたい》したイオドに、人々が訊《たず》ねたの。『これまでにあなたが手に入れた中で最高の財宝は何ですか』って。イオドはこう答えたわ。『間違いなく最高と言えるものがひとつある。だが、それが何なのかは言えない』……」 「どうして言えないの?」 「さあ、それが分からないのよ。その宝がどこにあるのかと訊《き》かれても、彼は笑ってこう言ったそうよ。『探《さが》しても無駄《むだ》だ。俺《おれ》の宝は誰にも奪えない。誰にも見つからない場所にあるからな。その秘密《ひみつ》は俺が墓《はか》まで持っていく』って」 「嘘っぽい話だなあ」大人たちと並んでジュースを飲みながら、サーラは正直な感想を口にした。「どんな宝か見せられないなんてさ。ホラ話じゃないの? すごい宝を持ってるんだぞって自慢《じまん》してるだけなんじゃ……?」 「イオドにかぎって、それはねえな」  隣《となり》に座《すわ》ってビールを飲んでいた盗賊《シーフ》のミスリルが言った。エルフとダークエルフの混血《こんけつ》で、肌《はだ》が黒い。そのせいでちょっと恐《おそ》ろしそうに見えるが、実際はそうではないことをサーラは知っている。彼ら三人は、年齢《ねんれい》や種族の違いを越《こ》えた、善《よ》き友人だった。  古代語|魔法《まほう》の使い手であるフェニックスと、盗賊で精霊使い《シャーマン》のミスリルは、サーラの属《ぞく》する冒険者パーティの貴重《きちょう》な戦力だ。もっとも、パーティはここしばらく休業中だった。女戦士のレグがまもなく出産を控《ひか》えているのだ。彼女が欠けたことによる戦力不足は、メイガスというドワーフをメンバーに加えることで一時的に解消したものの、いよいよ臨月《りんげつ》が近づくにつれ、今度はリーダー格《かく》のデインが妻の身を案じて気もそぞろになってきた。普段は冷静|沈着《ちんちゃく》な判断でパーティを引っ張っていくデインが、生まれてくる子供《こども》の名前を考えてにやけたり、レグのちょっとした体調の変化におろおろしたりするのを見るのは、友人としては微笑《ほほえ》ましい光景だが、プロの冒険者としては不安になってしまう。さすがにそんなリーダーの下で戦いたくはない。  もともとこのパーティは、サーラというお荷物を抱《かか》えていた。春からはそれにデルも加わっている。二人とも若《わか》いけれども盗賊としてはそこそこ優秀《ゆうしゅう》で、戦闘《せんとう》でもそこらの大人よりもよっぽど役に立つ。それでもフェニックスたちベテランの冒険者とは、ずいぶん力量の差があり、しばしば足を引っ張っている。  こんな状態《じょうたい》で、デインもレグも欠けたのでは、さすがにパーティは機能《きのう》しない。幸い、今のところ金にはさほど困《こま》っていない。だからとりあえず、レグの出産まで冒険には出ないことにしたのだ。サーラとデルはというと、みんなの足手まといにならないよう、盗賊《シーフ》ギルドに戻《もど》って訓練をやり直す毎日だ。  そんなわけで、彼らは旅に出ることもなく、こうして毎晩《まいばん》 <月の夜道> にたむろし、雑談《ざつだん》にふけっているのだった。 「イオドの冒険談にはホラなんてひとつもねえ」ミスリルは強い口調で断言した。「全部、本当にあったことばかりだってことは、奴《やつ》を知っていた者みんなが証言《しょうげん》してる。ザーンの屋上庭園に忍《しの》びこんだのも、本当だしな」  伝説によれば、ある時、イオドは盗賊仲間から「あんたでもさすがに屋上庭園に忍びこむのは無理だろう」と挑発《ちょうはつ》されたのだという。彼はエール一杯《いっぱい》でその賭《か》けに乗った。翌朝、彼は庭園の手入れをしている庭師に、「池の東側の×印の下に財布《さいふ》を埋《う》めといたから取ってきてくれ」と頼《たの》んだ。庭師が半信|半疑《はんぎ》で仕事に出かけると、本当に池の横に石を並《なら》べて×印が描《えが》かれ、その下を掘《ほ》ってみると財布が出てきたという。  イオドは賭けに勝ち、仲間からエールをおごられた。  彼は花一輪さえも庭園から持ち出しはしなかった。「盗《ぬす》むために入ったんじゃない、エール一杯の賭けのためにやったんだから」というのが彼の言い分だった。時のザーン国王ユージン四世はこの話を耳にし、大胆不敵《だいたんふてき》な盗賊に興味《きょうみ》を示《しめ》した。そしてイオドが侵入経路《しんにゅうけいろ》を明かすことを条件《じょうけん》に、彼の罪《つみ》を赦《ゆる》した。  イオドが侵入に用いたのは、頂上の貯水池から流れ落ち、市内|全域《ぜんいき》に水を供給《きょうきゅう》している水路だった。水量の減《へ》る夜間とはいえ、狭《せま》くて内側がつるつるのトンネルを、水の流れに逆《さか》らって登ってくる者がいようとは、誰《だれ》も想像《そうぞう》していなかったのだ。水路にはただちに鉄格子《てつごうし》や罠《わな》が仕掛《しか》けられ、再度《さいど》の侵入を阻《はば》んだ。同時にユージン四世は、二度と同じことが起きないよう、侵入者は見つけしだい首を斬ると宣言《せんげん》した。  それ以来もう一世紀以上、イオドのまねをしようとする無謀《むぼう》な者は現われない。 「ホラを吹《ふ》く必要なんかありゃしないのさ、イオドには。だからこそ、みんな『奪うことあたわぬ宝』の話も信じたんだ。奴が『ある』と言ったからには、本当にあるに違いない。だもんで、イオドが死んだ後、大勢《おおぜい》の盗賊や冒険者が必死になってそれを探した」 「でも、見つからなかったんでしょ?」 「ああ。イオドの遺した宝の地図を見つけたとか、謎《なぞ》を解《と》いたって話はよくあるがな。みんなガセネタだった」 「ふうん……」サーラは考えこんだ。「もしかして、その宝って、金貨《きんか》とか宝石とかじゃないんじゃないかな? もっと大切なもの——恋人《こいびと》とか家族とか……」 「イオドは生涯《しょうがい》、独身《どくしん》だったそうよ」とフェニックス。「亡《な》くなった時には、かなりの高齢だったそうだし」 「それに、恋人なら、その気になれば奪えるぞ」ミスリルは笑った。「『奪うことあたわぬ宝』とは言えねえな」 「じゃあ、名声とか」 「だったら秘密にするこたあないだろ? 『俺の最高の宝は名声だ』って、公言すりゃいいじゃないか」 「そうかあ……」サーラはいっそう深く首を傾《かし》げた。「じゃあ、いったい何なの、『奪うことあたわぬ宝』って?」 「それが分からねえのさ」ミスリルは楽しそうに肩《かた》をすくめた。「何か分からないから、期待もふくらむ。きっとものすごく素晴《すば》らしいものに違《ちが》いないってな——いつか『イオドの奪うことあたわぬ宝』を見つけるのが、ザーンの盗賊みんなの夢《ゆめ》なんだ」  翌日《よくじつ》の午後、サーラはデルに会った。ザーンの外壁《がいへき》に刻《きざ》まれた、遺棄《いき》された古い階段《かいだん》だ。岩山の中腹《ちゅうふく》にあり、柵《さく》もなくて吹きさらしの危険《きけん》な場所だが、人はめったにやって来ないので、幼《おさな》い恋人たちの逢引《あいびき》には絶好《ぜっこう》だった。  二人はいつものように、踊《おど》り場に並《なら》んで腰《こし》かけ、話をした。デルは無口なので、間を持たせようと、必然的にサーラの口数の方が多くなる。彼は耳にしたばかりの「奪うことあたわぬ宝」の伝説を聞かせた。 「僕は屋上庭園に秘密があるんじゃないかと思うんだ」  話の最後に、彼は昨夜のうちに思いついた推理《すいり》を披露《ひろう》した——後から思えば、そんなことはしなければよかったのだが。 「イオドは『花一輪も庭園からは持ち出さなかった』って言ったらしいんだ。でも、『何も持ちこまなかった』とは言ってない。げんに財布は埋めてきたんだし——つまりさ、イオドは大事な宝物を持っていって、庭園のどこかに埋めたんじゃないかな? それから、自分の使った侵入路をふさがせて、誰も庭園に行けないようにした。これほど安全な隠《かく》し場所は他《ほか》にないよ。どこにあるか言えないのも当たり前さ。言ったら衛兵《えいへい》に掘《ほ》り返されるもの」  サーラはそう言うと、大きくそり返って岩山を見上げた。ここからでは湾曲《わんきょく》した壁面《へきめん》に阻《はば》まれ、頂上《ちょうじょう》の森は見えない。 「ああ、でもこの推理が当たってるとしても、証明する方法がないよね。あんなとこ、行けっこないもの」  ため息をつくサーラ。しかし—— 「……行けるわ」  デルがぽつりとつぶやいた。 「え?」 「行く方法があるの。私、知ってるの」  デルは打ち明けた。サーラと知り合う前、孤独《こどく》だった彼女は、ザーンの中の使われていない通路や抜《ぬ》け穴《あな》を探索《たんさく》するのを趣味《しゅみ》にしていた。そうした場所でなら、誰にも干渉《かんしょう》されず、一人になれるからだ。その経験《けいけん》から、彼女はザーンの秘密の構造《こうぞう》を、すべてとまではいかないが、かなり熟知《じゅくち》していた。  このザーンはもともとオパールの鉱山《こうざん》だったのだが、資源《しげん》が枯渇《こかつ》した後の坑道《こうどう》に多くの人間が住みつき、何代にもわたって無秩序《むちつじょ》に掘り広げていった結果、内部はすっかり迷路《めいろ》のようになってしまっている。使われていない坑道の跡《あと》や、崩壊《ほうかい》したために封鎖《ふうさ》された区画、途中《とちゅう》までしかない階段などがざらに存在《そんざい》する。誰も完璧《かんぺき》な地図など持っていない。  デルは探索を続けるうち、ある抜け穴を発見した。それは複雑《ふくざつ》に分岐《ぶんき》した通路の末端《まったん》にあって、ザーンの北側|斜面《しゃめん》の上部、頂上までほんの少しのところに口を開けており、そこからなら岩壁を登って楽に頂上に達することができそうだった。ザーンの北側には森が広がっているので、開口部は地上からは見えにくい位置にある。それに、埃《ほこり》の積もり具合から見て、通路はもう長いこと使用された形跡《けいせき》がない——つまり、そんな抜け穴が存在するということを、誰も気がついていない可能性《かのうせい》が高いのだ。  ここでサーラが、「ふーん、面白《おもしろ》そうだね」と安易《あんい》に相槌《あいづち》を打ってしまったのがまずかった。彼が冒険《ぼうけん》に興味《きょうみ》を示《しめ》したと勘違《かんちが》いしたデルは、すっかり喜んで、たちまち秘密の侵入計画を練り上げてしまった。実行するのは夜間、それも月の明るい夜がいい。盗《ぬす》みに入るわけではないので、余分な装備《そうび》は一切《いっさい》不要。大人たちの目を盗んで抜け出し、夜が明ける前に戻《もど》る……。  彼女の語る計画を軽い気持ちでうなずいて聞いていたサーラだったが、それが冗談《じょうだん》ではないと気がついた時には、もう遅《おそ》かった。デルはすっかり乗り気になっており、今さら後には引けなくなっていた。  かくして今夜、サーラはわずか十二|歳《さい》にして、ザーンの禁断《きんだん》の地に侵入《しんにゅう》するという、大それた犯罪《はんざい》に手を染《そ》めることになったのである。 「こっち……」  デルは小声でそう言うと、サーラを手招《てまね》きした。ためらうことなく、ずんずん森の中に分け入ってゆく。サーラは慌《あわ》ててその後を追う。自然にできた森と違って、茂《しげ》みはあまり密《みつ》ではなく、進むのに苦労はなかったが、どこかに盗賊よけの罠《わな》があるのではないかと、気が気でなかった。月光の届《とど》かない森の中には、どんな罠があっても、見つけるのは不可能だろう。  少し進むと、煉瓦《れんが》を敷《し》き詰《つ》めた小道に出た。梢《こずえ》が屋根のように頭上を覆《おお》い、その合間から差しこむ月光が、白いカーテンのように幾重《いくえ》にも垂《た》れ下がって、道をまだらに染めている。道はゆるやかに湾曲しており、先を見通すことはできない。両側には白い花が植えられ、月光の下で咲《さ》き誇《ほこ》っていた。  幻想《げんそう》的な光景だった。精霊界《せいれいかい》に通じる道というものがあるなら、こんな感じなのだろうか。二人は手をつなぎ、息をひそめて、そろそろと歩いた。互《たが》いにぎゅっと握《にぎ》り締《し》めた手が汗《あせ》ばんでいるのを感じる。  庭園を歩きながら、サーラの心臓は激《はげ》しく鼓動《こどう》していた。だが、それが捕《つか》まるかもしれないという恐怖《きょうふ》のせいなのか、美しい庭園を目にした興奮《こうふん》のせいなのか、それともデルと手を握っているせいなのか、自分でもよく分からなかった。  茂みの中でがさがさと音がした。サーラははっと緊張《きんちょう》した。茂みの奥《おく》の闇《やみ》に、何か黒い影《かげ》がうずくまっている。そいつは長い首をもたげ、不気味に光る一|対《つい》の眼《め》で彼を見つめていた。 「……鹿《しか》よ」  デルがささやいた。なるほど、眼の周囲におぼろげに見える頭部の輪郭《りんかく》は、まぎれもなく鹿だった。猫《ねこ》の仲間と同じく、鹿の眼も暗闇で光るのだ。  サーラはほっとして肩の力を抜いた。 「鹿なんて飼《か》ってるんだな……」 「リスや小鳥も飼ってるそうよ」とデル。「今は寝《ね》てるだろうけど」  これなら侵入者よけの罠を警戒《けいかい》しなくてもよさそうだ、とサーラは思った。落とし穴や鳴子《なるこ》があったら、動物たちがしょっちゅうひっかかっているだろうから。 「鳥は逃げないのかな?」 「餌《えさ》をもらえるから……」 「なるほど」  鹿は接近《せっきん》する人の気配で目を覚ましただけで、特に何をするわけでもなさそうだった。長く飼われているので、人には慣れているのだろう。二人は鹿を刺激《しげき》しないよう、足音を忍《しの》ばせてその場を歩み去った。  どのぐらい歩いただろうか。不意に森が途切《とぎ》れ、開けた空間に出た。 「うわあ……」  サーラは驚《おどろ》きに目を丸くし、思わず声をあげた。眼前《がんぜん》に広がっている素晴《すば》らしい光景は、疲《つか》れを吹《ふ》き飛ばすのに充分《じゅうぶん》だった。  目の前には、大きな美しい池があった。ほぼ円形で、風もないのにさざ波が立っており、月光を反射《はんしゃ》してきらきらと光っている。水面にはハスの葉が浮かんでいた。どこかで水の流れる涼《すず》やかな音がする。サーラは身を乗り出し、水面を覗《のぞ》きこんだ。水は驚くほど透明《とうめい》で、冷たそうだった。  池のこちら側の岸は狭《せま》かったが、対岸の土手の上には芝生《しばふ》が広がっていた。岸辺に植えられた大きな樹《き》は、きっと昼間は快適《かいてき》な木陰《こかげ》を提供《ていきょう》しているのだろう。岸辺には白いしゃれた小舟《こぶね》が係留《けいりゅう》されている。花壇《かだん》や葡萄棚《ぷどうだな》、花を伏せたような白い東屋《あずまや》も見えた。子供《こども》たちがはしゃぎ回る光景が目に浮かぶようだ。  権力者《けんりよくしゃ》たちの楽園——この景観を楽しめるのは、ザーンの王とその家族、ごく一部の高官、それに限《かぎ》られた使用人と衛兵《えいへい》だけだ。一般《いっぱん》市民のほとんどは、自分たちの頭上にある庭園の存在は知っているものの、ちらりと目にすることさえ許《ゆる》されない。庭の手入れをする職人《しょくにん》の口から伝え聞く、この世のものとは思えない庭園の美しさに、羨望《せんぼう》のため息と愚痴《ぐち》を洩《も》らすだけだ。王族というのは何と幸運な連中なのだろう。権力者の家系《かけい》に生まれたというだけで、何もせずに莫大《ばくだい》な金を浪費《ろうひ》し、広い城《しろ》に住み、大きな美しい庭園を独占《どくせん》できるのだから……。  だが、今のサーラたちには、そのような羨望の念など湧《わ》いてこなかった——庭園の素晴らしさに、ただ純粋《じゅんすい》に感動していた。  人がわいわい騒《さわ》いでいたなら、その美しさも多少は損《そこな》われていたかもしれない。だが、今は真夜中。広い庭園にはまったく人の気配がない。水面のさざなみの他は、絵の中の光景のように動くものひとつなく、月の光の下、静叔《せいじゃく》に支配《しはい》されている。まるで人が絶滅《ぜつめつ》した後の世界のようで、不気味であると同時に、ひどく魅力的《みりょくてき》でもあった。  そこにいるのは二人だけ——まるで二人のために用意された楽園のようだ。  庭園は彼らを誘《いざな》っていたが、さすがにいきなり月光の下に姿《すがた》をさらすのはためらわれた。サーラたちは池と森の境界《きょうかい》に沿《そ》って伸《の》びる遊歩道を東へ歩き、様子を探《さぐ》ってみることにした。発見されないよう、樹々《きぎ》が落とす影《かげ》の中を、注意深く選んで進む。  少し歩くと、大きな深い溝《みぞ》があり、その上に橋が渡《わた》されていた。溝の一方の端《はし》は池の片隅《かたすみ》にある水門に突《つ》き当たり、もう一方の端は森の中にある深い縦穴《たてあな》に消えている。貯水池からザーン市内に水を供給《きょうきゅう》する水路である。ここから流れ出した水が、岩山の中に螺旋状《らせんじょう》に掘《ほ》られた長い水道を流れ落ち、市民の飲料水をまかなっているのだ。言うならばザーンの生命線である。夜間は水の節約のために水門は閉じられており、溝の底にはちょろちょろと水が流れているだけだった。  遊歩道は橋の向こう側にまで続いている。池を取り囲む低い土手に沿《そ》って南へ進み、池を半周して、岩山の南端《なんたん》にある城《しろ》へと伸びているらしい。王族の散策路《さんさくろ》なのだろう。ここから先、もう森はなく、身をひそめて進むわけにはいかない。 「あの樹……」  デルが岸辺に立っている一本の樹を指差して言った。 「あそこまで行ってみましょ」  彼女の言葉には逆《さか》らえない。サーラは覚悟《かくご》を決めた。  見張《みは》りがいないのを確認《かくにん》して、二人は月光の下に飛び出した。橋を渡り、樹までのほんの数十歩の距離《きょり》を夢中《むちゅう》になって駆け、樹の蔭《かげ》に転がりこんだ。予想に反して、とがめる声はどこからも飛んで来なかった。二人は土手の芝生に座《すわ》りこみ、冒険《ぼうけん》が成功した安堵《あんど》感から、声を殺して笑い合った。  ひとしきり笑ってから、デルがふと、不安そうな表情《ひょうじょう》で言った。 「ねえ……迷惑《めいわく》?」 「え?」 「こんな危険《きけん》なことにつき合わせて……後悔《こうかい》してる?」 「ううん、してないよ」  サーラは本心からそう言った。この美しい庭園を目にできた感動と、冒険の興奮《こうふん》で、それまでの苦労も不満も吹《ふ》き飛んでしまっていた。 「よかった……」  デルはほっとした様子だった。その顔は何とも無邪気《むじゃき》で、幸福そうだ。 「ええっと、ここって池の東側だよねえ」とサーラ。「伝説だと、イオドはこのへんに×印を残したはずなんだけど……」  見回してみたが、一世紀前の印など残っているはずがない。財宝《ざいほう》のヒントらしきものも見当たらない。無論《むろん》、「奪《うば》うことあたわぬ宝《たから》」がすぐに見つかるなんて、思っていなかった。すぐに見つかるようなら、とっくに庭師《にわし》か衛兵《えいへい》にでも掘《ほ》り返されていただろう。  デルはというと、手がかりを探す気すらないようだった。実のところ、宝探しなどというのは口実だということは、サーラも気づいている。彼女はこうやって無謀《むぼう》な振《ふ》る舞《ま》いにつき合わせることで、サーラの愛情を確認しているのだ。彼がどんな苦難《くなん》をも分かち合い、彼女のためならば罪《つみ》を犯《おか》すこともいとわないことを、身をもって証明《しょうめい》させているのだ。  ひどく利己《りこ》的な行為《こうい》である。普通《ふつう》の男だったら、とっくに愛想《あいそ》を尽《つ》かしていることだろう。だが、デルの悲惨《ひさん》な過去《かこ》を知っているサーラには、その気持ちが痛《いた》いほどよく分かる。信じていた父親に殺されかけたことがある彼女は、愛というものを完全に信じることができないのだ。心の奥底《おくそこ》では、サーラがいつか自分を裏切るのではないかという疑《うたが》いを捨《す》て切れないのだろう。だからこそ、次から次に無理難題をふっかけ、愛情を試《ため》していないと不安なのだ。  それが分かっているから、わがままと知りつつも、サーラは彼女の要求を拒絶《きょぜつ》できないのだ。 「あ……」  デルが何かに気がつき、つぶやいた。 「どうかした?」 「サーラ、怪我《けが》してる……」 「え? ああ、これ」  サーラは自分の右腕《みぎうで》を見た。岩壁《いわかべ》を登る途中《とちゅう》、うっかり岩の角で擦《す》りむいたため、二の腕に血がにじんでいた。さっきからひりひりしてはいたのだが、たいした怪我でもないので、気にかけなかったのだ。 「ごめんなさい。私のせいで……」 「かすり傷《きず》だよ。たいしたことない」 「だめ。見せて」  デルは少年の腕を手に取った。傷に口を近づけながら、小声で祈《いの》りの文句《もんく》をつぶやく。 「偉大《いだい》なるファラリスよ。この者にあなたの加護《かご》を……」  それから、そっと傷にくちづけをした。  少女が唇《くちびる》を離《はな》すと、傷はすっかり癒《い》えていた。痛みも消えている。 「あ、ありがとう……」  サーラはとまどいながら、腕をひっこめた。害が無いことは頭では分かっているのだが、暗黒神《ファラリス》の力を借りることは、やはり抵抗《ていこう》がある。 「気持ち悪い……?」  デルが不安そうに訊《たず》ねる。サーラは無理《むり》に笑《え》みを浮《う》かべた。 「うん、まあ……正直言って、ちょっとね……」 「そう……」  デルはそっと顔をそむけた。二人の間に気まずい沈黙《ちんもく》が漂《ただよ》った。  彼女が暗黒神ファラリスを信奉《しんぽう》していることを知っているのは、サーラだけだった。九か月前の事件《じけん》で、デルはドレックノールの「闇《やみ》の王子」ジェノアに誘《さそ》われ、ファラリスの入信の儀式《ぎしき》を受けたのだ。彼女を操《あやつ》ってザーンの盗賊《シーフ》ギルドを乗っ取ろうとしたジェノアの陰謀《いんぼう》は、サーラの活躍《かつやく》で阻止《そし》されたものの、その日以来、デルはファラリス司祭としての力——暗黒魔法《デーモン・スクリーム》を身につけていた。  破壊神《はかいしん》カーディスや、名も無き狂気《きょうき》の神など、他の暗黒神に比べると、ファラリスはさほど邪悪《じゃあく》な神というわけではない。その教えは「己《おの》れの欲望《よくぼう》のままに生きよ」という単純《たんじゅん》なものである。社会の掟《おきて》に従《したが》わず自由|奔放《ほんぽう》に生きる人間なら、善人《ぜんにん》悪人を問わず、ファラリスは加護する。信者はおのおのの秘《ひ》めた欲望に従い、それぞれ違《ちが》ったやり方で、その教えを実践《じっせん》するのだ。  ファラリス信仰《しんこう》が世間で忌《い》み嫌《きら》われているのは、不幸なことに、ファラリス信者の多くが心のねじ曲がった人間であり、その力がしばしば邪悪な目的に用いられるからだ——いや、邪悪な人間だからこそ、ファラリスの教えに惹《ひ》かれるのかもしれないが。  だが、信者が正しい心の持ち主であれば、その身に宿るファラリスの力もまた、正しい方向に使われる。デルが邪悪な人間ではなく、ファラリスの力を悪用したりしないことは、サーラはよく知っていた。ただ、世間の人々に無用な誤解《ごかい》を招《まね》くことを恐《おそ》れ、秘密《ひみつ》にしているのだ。 「……でも私、この力を手放す気はないわ」  サーラははっとした。デルの声は小さかったが、その口調には断固《だんこ》とした意志《いし》が感じられたからだ。 「だって、ファラリスの教えは正しいと思うから……」 「デル——」  サーラが何か言いかけたのを、デルは指を立ててさえぎった。 「私、自分の欲望が正しいと信じてるの。私の欲望はただひとつ、あなただけ——あなたを失いたくない、あなたを守りたい、あなたの役に立ちたい……ただそれだけなの。お金も権力《けんりょく》も要《い》らない。他のものは何も欲《ほ》しくない。あなたがいれば、それでいいの」  少年は顔が火照《ほて》るのを覚えた。普段《ふだん》のデルは無口で消極的な娘《むすめ》だが、サーラの前ではしばしぼ雄弁《ゆうべん》で大胆《だいたん》になる——愛を語る時には特に。 「欲望に従えというのがファラリスの教えなら、私はその教えに従う。あなたのためなら何でもする。あなたのためなら、人でも殺すわ」  デルは危険《きけん》なことをさらりと言ってのけた。 「だから私、この力を手放したくないの。いつかこの力が、あなたを救うのに役立つかもしれないから——私、間違ってる?」  その言葉に嘘《うそ》はない。そもそも、彼女が最初に暗黒魔法《デーモン・スクリーム》を使ったのも、サーラの絶体絶命《せったいぜつめい》の危機を救おうとしてのことだった。デルは彼の傷を癒《いや》してくれとファラリスに祈り、暗黒神はその願いを聞き届《とど》けたのだ。 「……いいや、間違ってない」  サーラはそう言って微笑《ほほえ》んだ。そう、少女の純真《じゅんしん》な気持ちに、間違いなどあるはずがない。彼女が悪に走るなどとは考えられない。  もしも彼女が間違った方向に進んだら——いや、そうならないように守ってやるのが僕《ぼく》の義務《ぎむ》だ。彼女が僕を守ると誓《ちか》ったように、僕も彼女を守ると誓ったんだから……。  サーラは黙《だま》って、愛《いと》しい少女の肩《かた》を優《やさ》しく抱《だ》き寄《よ》せた。デルは力を抜《ぬ》き、安心して、恋人《こいびと》の胸《むね》にしなだれかかった。二人はしばらくじっと体を寄せ合ったまま、無言で池を眺《なが》めていた。時が静かに過《す》ぎてゆく。言葉を交わし合うより、こうして黙って触《ふ》れ合っている方が、心が通じ合う気がした。  池の中では満月が揺《ゆ》れていた。それを見ているうち、サーラは奇妙《きみょう》なことに気がついた。  月が二つある——水面に映《うつ》る満月とは別に、もうひとつ、水中で青く光っているものがあった。 「あれ、何だろう? あの光……?」  サーラが指差すと、デルはささやいた。 「……きっとオーブよ」 「オーブ?」  デルはうなずいた。「水を無限《むげん》に湧《わ》き出す魔法《まほう》の水晶球《すいしょうきゅう》——古代王国の遺物《いぶつ》よ。あれがあるおかげで、ザーンの水源《すいげん》は尽《つ》きないの」 「ふーん。魔法っていろんなことができるんだな」  数百年前の古代王国時代には、魔法|技術《ぎじゅつ》が現在《げんざい》よりもはるかに進歩しており、特定の魔力を付与《ふよ》された道具や武器《ぶき》が多数|製作《せいさく》された。いわゆる「魔導器《まどうき》」というやつだ。とりわけ一般《いっぱん》的だったのは、水晶球に魔力を封《ふう》じこめる方法で、様々な魔力を秘《ひ》めたオーブが現在でも数多く残っている。  だが、古代王国は魔法技術の濫用《らんよう》が間接《かんせつ》的な原因《げんいん》となり、滅亡《めつぼう》した。魔導器を製作する技術も失われ、このザーンのオーブのように、先祖《せんぞ》の残した遺産を細々と使い続けているのである。 「ねえ、サーラ」  デルが急に顔を上げた。また何かサーラを困《こま》らせることを思いついたらしく、その表情はいたずらっぽい笑みで輝《かがや》いている。 「何?」 「泳ぎましょうよ」  唐突《とうとつ》な提案《ていあん》に、サーラは仰天《ぎょうてん》した。「お……泳ぐって? ここで?」 「そうよ。きっと冷たくて気持ちいいわ」  そう言いながら、すでにデルはブーツを脱《ぬ》ぎはじめていた。 「だって、いくら何でも無茶な……わっ!?」  サーラは慌《あわ》てて顔をそむけた。デルが服を脱ぎはじめたからだ。  しばらくして、デルが立ち上がり、ばしゃばしゃと水音を立てて池に入ってゆく気配がした。サーラはそろそろと視線《しせん》を戻《もど》した。彼の隣《となり》には、少女の着ていたシャツとズボン、ブーツ、手袋《てぶくろ》、下着までが、きちんと畳《たた》んで置かれていた。 「気持ちいいわ」  デルはすでに首まで池に浸《つ》かっていた。少女の思いがけない大胆さに、サーラは唖然《あぜん》となった。衝動《しょうどう》に忠実《ちゅうじつ》に行動するのも、ファラリスの教えなのだろうか。 「だ、だめだよ、デル……!」サーラは小声で呼《よ》びかけた。「早く戻って。見つかっちゃうよ」 「だいじょうぶよ」 「だいじょうぶじゃないよ! 早く戻って」  デルは振《ふ》り向き、笑顔でサーラを誘《さそ》った。 「いっしょに泳ぎましょ」 「だって……」 「泳いでくれなきゃ帰らない」  どうとでもなれ、とサーラは思った。誰《だれ》にも見られていないか、あたりを気にしながらも、ブーツを脱ぎ、シャツを脱ぎ、ズボンを脱ぐ。下着一枚になって、そろそろと池の中に入ろうとした。 「ずるい!」デルが見とがめた。「私と同じにならないと不公平よ」 「……分かったよ」  サーラは観念した。しぶしぶ下着も脱ぐと、前を隠《かく》しながら、そろそろと池の中に滑《すべ》りこんだ。水は夏にしては冷たかったが、耐《た》えられないほどではなく、むしろ火照《ほて》った体に心地好《ここちよ》かった。  デルはくすくす笑うと、さっと身をひるがえし、水中に潜《もぐ》った。一瞬《いっしゅん》、真っ白な尻《しり》が見えて、サーラをどきりとさせた。  池は岸から離《はな》れると急に深くなる。サーラは水底を蹴《け》り、デルの後を追ってゆっくりと泳ぎだした。故郷《こきょう》のハドリー村でさんざん川遊びをやったので、泳ぎには自信がある。こんな穏《おだ》やかな池で溺《おぼ》れる心配はない。むしろ、水音を立てて誰かに発見されることを警戒《けいかい》しなくてはならなかった。  デルの姿は見えない。ずっと潜ったままだ。サーラは不安になり、大きく息を吸《す》うと、自分も水中に潜った。  水は信じられないほど透明度《とうめいど》が高く、空気中とほとんど変わらなかった。真っ白な砂《すな》が敷《し》き詰《つ》められた池の底に、水面から差しこむ青白い月光が、光の網目模様《あみめもよう》を落としている。あちこちに水草がゆらゆらと揺れており、別世界のように幻想《げんそう》的な光景だった。  水草の森の向こうに青い光源があった。そこに向かってデルが泳いでゆくのが見える。サーラも水草をかき分け、後を追った。水草の間で休んでいた魚が、眠《ねむ》りを覚まされ、慌てて泳ぎ去った。  途中《とちゅう》で二度ほど息を継《つ》いで、池の中心部、オーブが沈《しず》んでいる地点に近づいた。そこにはすでにデルが待っていた。透明度の高い水と、水面《みなも》からの明るい月光、それにオーブの放つ光のせいで、その美しい裸身《らしん》がはっきりと見える。サーラはどぎまぎとなったが、デルは恥《は》ずかしがっている様子はない。  池の深い底にはアリジゴクの巣を連想させる擂鉢状《すりばちじょう》の砂のくぼみがあり、その底にオーブが沈んでいた。ひと抱《かか》えほどもある巨大《きょだい》な半透明の球体で、月光に似《に》た神秘《しんぴ》的な青い輝《かがや》きを放っている。ごーっという静かな雑音《ざつおん》が水中を満たしていた。  擂鉢の底からは断続的に砂が噴出《ふんしゅつ》していた。オーブから水が湧き出しているのだ。舞《ま》い上がった砂は擂鉢の壁面《へきめん》に少しずつ堆積《たいせき》し、重みで崩《くず》れ落ちては、また噴《ふ》き上げられる——それを繰《く》り返していた。  デルは真上からオーブに近づいた。手を触《ふ》れようというのだろう。しかし、あとほんの少しというところで、いくら泳いでも前に進まなくなった。噴出する水に阻《はば》まれるのだ。  泳ぐのをやめると、少女の裸身は水の流れに押《お》し戻され、木の葉のようにひらひらと水中を舞った。  息を継ぎ、もう一度|挑戦《ちょうせん》する。今度は勢《いきお》いをつけて突進《とっしん》した。しかし、やはり水の流れに進路をそらされ、オーブには行き着けない。  デルはむきになっていた。今度は水底を水平に進み、擂鉢の穴《あな》に近づく。素足《すあし》を砂にめりこませ、一歩ずつ慎重《しんちょう》にオーブに迫《せま》った。水の勢いに耐《た》えながら、か細い右腕をいっぱいに差し伸《の》べる。  ついに指がオーブに触れたが、それで何が起きるわけでもない。次の瞬間《しゅんかん》には、デルはまた水に押し戻され、水中をくるくると舞っていた。サーラの方を振りかえった顔は、無邪気《むじゃき》に笑っている。笑い声さえ聞こえてきそうだった。  サーラはというと、ただ見つめていることしかできなかった。現実離れした美しさに圧倒《あっとう》されていたのだ。空気中のように透《す》き通った水の中で、青い幻想的な光を浴び、飛翔《ひしょう》し、旋回《せんかい》し、はしゃぎ回る少女の姿《すがた》は、妖精《ようせい》と見まがうばかりだった。オーロラを思わせる光の中で、旋回するたびに裸身がしなやかにくねり、白い手足がひるがえった。黒い髪《かみ》が炎《ほのお》のようにはためき、その合間から花のような笑顔がひらめいた。それはどんな夢《ゆめ》の中でも見たことのない光景だった。息を継ぐ必要がなければ、何分でも何時間でも眺《なが》めていただろう。  この世にこれほど美しいものがあるなんで、想像《そうぞう》したこともなかった。  やがて、泳ぎ疲《つか》れた二人は、肩《かた》を支《ささ》え合いながら岸に這《は》い上がった。もつれ合うようにして、岸辺の傾斜《けいしゃ》した芝生《しばふ》の上に寝転《ねころ》がる。しばらくの間、並《なら》んで横たわり、犬のようにはあはあと息をしながら、動悸《どうき》がおさまるのを待った。  その時、視界《しかい》の隅《すみ》に、小さな二つの黄色い光がちらっと見えなかったら、どうなっていたか分からない。 「まずい!」サーラは少女の肩を揺《ゆ》すった。「見張りだ……!」  デルもその光を目にした。カンテラの灯《ひ》だ。樹々《きぎ》に見え隠れしながら、池を半周する土手の上の遊歩道に沿《そ》って、ぶらぶらと近づいてくる。  サーラたちは慌てて近くの樹にすり寄り、影《かげ》の中に身をひそめた。しかし、完全に隠れられたわけではない。見張りが樹のこちら側に来てカンテラで照らし出せば、あっさり発見されてしまう。二人は影の中で抱《だ》き合い、身を縮《ちぢ》め、息をひそめて待った。服を着る暇《ひま》などなかった。こんなところで、こんな格好《かっこう》でいるところを見つかったら、言い訳《わけ》などできない。  そうだ、服だ!——見ると、少し離《はな》れた芝生の上に、二組の服が置き忘《わす》れられていた。  サーラは心臓《しんぞう》が止まりそうになった。夜の闇《やみ》にまぎれるための黒っぽい服とはいえ、この明るい月光の下では、近くまで来たらはっきり見えてしまうだろう。しかし、今さら取りに戻ることも危険《きけん》だ。  見回りの衛兵《えいへい》たちは、いよいよ近づいてきた。サーベルと装具《そうぐ》がぶつかって立てるしゃらしゃらという音も、はっきり聞こえる。二人は歩きながら何か議論《ぎろん》しているらしく、カードがどうとか金がどうとかいう言葉が断続《だんぞく》的に聞こえ、時おり笑いも起きた。どうやら、昼間のカード賭博《とばく》について、お互《たが》いの首尾《しゅび》を揶揄《やゆ》し合っているようだ。  緊張感《きんちょうかん》のない見回り——それも当然のことだ。この庭園に侵入《しんにゅう》した者など、一世紀以上もいないのだから。散歩のように気楽な、決まりきった仕事をこなしているだけで、何か変事があるなんで予想もしていまい。  サーラは衛兵たちの怠慢《たいまん》に期待した——いや、期待するしかなかった。デルの肩を抱き寄せ、早く通り過ぎてくれと一心に祈《いの》った。暴走《ぼうそう》する心臓は破裂寸前《はれつすんぜん》だった。密着《みっちゃく》しているデルの身体《からだ》も、がたがたと震《ふる》えていた。  やがて衛兵たちは、サーラたちの隠れている樹の背後《はいご》を、ゆっくりと通過《つうか》した。影の中にひそんでいる二人の侵入者にも、芝生の上の服にも気づさもしない。カンテラの灯が遠ざかり、見えなくなると、ようやくサーラは大きく安堵《あんど》の息を吐《つ》いた。  その時|突然《とつぜん》、彼は自分が異常《いじょう》な状況《じょうきょう》に置かれていることに気がついた。  異常というより、異例と呼ぶべきかもしれない。世間一般では、彼らの年齢《ねんれい》の少年少女は、真夜中に裸《はだか》で身体をくっつけ合っていたりはしないものだ。しかも衛兵が去ったというのに、デルは離れようとしない。  慌《あわ》てて身体を離そうとする——が、デルはそれを許《ゆる》さなかった。少年の肩に手をかけ、優《やさ》しく芝生の上に押《お》し倒《たお》す。 「ちょ、ちょっと……!?」  サーラは思わず声をあげた。デルは今や彼の上に身を重ねて横たわり、彼の肩に頭を載《の》せていた。身をよじり、柔《やわ》らかな肌《はだ》をしきりにすり寄せてくる。  彼女の意図に気がつき、サーラは愕然《がくぜん》となった。 「だ……だめだよ、デル!」  サーラは手を伸ばし、少女の身体を引き離した。デルは肘《ひじ》をついて上半身を起こし、少年の顔を不思議そうに覗《のぞ》きこむ。 「どうして……?」 「ど、どうしてって……」 「……したくないの?」 「し……」サーラはごくりと唾《つば》を飲みこみ、どうにか声を絞《しぼ》り出した。「……したくなんかないよ!」  デルはちょっと視線《しせん》を下げ、少年の下半身に目をやった。それからまた顔を見つめ、いたずらっぽく微笑《ほほえ》む。 「……嘘《うそ》つき」  濡《ぬ》れた髪《かみ》が貼《は》りついたその顔は、ひどくなまめかしかった。年齢を超越《ちょうえつ》した神秘的な魅力《みりょく》で、少年の脳《のう》を直撃《ちょくげき》する。サーラは蛇《へび》に狙《ねら》われた蛙《かえる》のように身動きならなかった。 「だ、だ、だ、だって、ぼ、僕たちまだ十二歳で……」 「私、もう十三よ」  デルの方が四か月年上なのだった。 「それにしても若《わか》すぎるよ!」 「蛮族《ばんぞく》の中には、九歳ぐらいで結婚《けっこん》する部族もあるそうよ」 「僕たちは蛮族じゃないよ!」 「何をためらうの? 何かいけない理由があるの?」 「だって……」 「愛してるんでしょう?——それとも、私が裸で出てくる夢を、見たことがないとでも言うつもり?」  否定《ひてい》できず、サーラは返答に詰《つ》まった。懸命《けんめい》に逃《に》げ道を探《さが》すが、見つからない。 「私を癒《いや》して、サーラ」彼女はびっくりするほど大人びた声でささやいた。「私のこの身体から、汚《けが》らわしい思い出を拭《ぬぐ》い去って……」  サーラはもう何も言えなくなってしまった。  少女は勝利を確信《かくしん》したように微笑み、彼の上に静かにのしかかってきた。目を閉じ、くちづけを求めて、すぼめた唇《くちびる》を近づけてくる。濡れた黒髪がはらりと垂《た》れ、少年の顔にかかった。  その瞬間《しゅんかん》、サーラが感じたのは恐怖《きょうふ》だった——衛兵に見つかりそうになった時よりも、今の方がはるかに恐《おそ》ろしい。何か月も親しくしていて、何もかも知りつくしていたはずの少女が、急に偽《いつわ》りの装《よそお》いを脱《ぬ》ぎ捨《す》て、本性《ほんしょう》をさらけ出したように思えた。その微笑みは美しかったが、悪魔《あくま》の微笑みだった。彼女の誘惑《ゆうわく》は耐《た》えがたいほど甘美《かんび》だったが、それは地獄《じごく》への誘《さそ》いだった。彼は思わず両手で芝生をつかんだ。しっかり大地につかまっていないと、理性が夜空に向けてはじけ飛んでしまいそうだったからだ。  強烈《きょうれつ》な不安と混乱《こんらん》と興奮の中で、サーラは自分の中で何か得体の知れない巨大《きょだい》なものが膨張《ぼうちょう》し、爆発《ばくはつ》しかけているのを感じた。あとほんの少し——ほんの一歩だけ踏《ふ》み出せば、それは殻《から》を吹《ふ》き飛ばし、解放《かいほう》されるだろう……。  しかし、唇が触《ふ》れ合う寸前《すんぜん》、彼は断固《だんこ》として少女を押し戻《もど》した。 「だめだ……!」  デルはきょとんとした目で少年を見下ろす。サーラの呼吸はひどく乱《みだ》れ、全力|疾走《しっそう》の後のようだった。自分を抑《おさ》えるのに、ありったけの意志力《いしりょく》を振《ふ》り絞《しぼ》っているのだ。 「もう……もう、やめようよ、デル」 「どうして……?」 「君は……僕《ぼく》を信じてないだろ?」  デルの身体がびくっと震えるのが分かった。 「そんな……」 「だって、そうだろ? 僕がいくら『好きだ』って言っても、いくらキスしてあげても、僕を信じられないんだろ? だから無茶《むちゃ》なわがままばかり言ったり、こんなことまでして……僕が本当に君を好きなのか、試《ため》してるんだろ?」 「違《ちが》う……」デルは力なくかぶりを振った。「私、本当にあなたが好きで……」 「知ってるよ。僕だって君が好きだ——でも、君はそれを信じてくれないじゃないか。本当に信じてるんなら、こんなふうに僕を試すことなんてないだろ?」 「サーラ……」 「僕にだってプライドはあるよ。こんなに君が好きなのに、まだ疑《うたが》われてるなんで、すごく悔《くや》しいよ。自分を信じてくれてもいない相手と……そんなの嫌《いや》だよ」 「…………」 「君は突《つ》っ走りすぎてるよ、デル——ここで君と……したとしても、それでもまだ君の疑いが晴れなかったなら、次はいったいどうするつもり?」  デルの表情《ひょうじょう》はこわばっていた。サーラは彼女が泣き出すのではないかと思った。あるいは怒《おこ》り出すのでは……。  だが——デルはにっこりと笑った。 「ほんとね」彼女は小さくため息をついた。 「フェニックスが言った通りだわ」 「フェニックスが?」  デルはうなずいた。「彼女は言ってたわ。あなたの最大の才能《さいのう》は、人の心を読むことだって。こわいぐらいに人の心を見通してしまうって」 「じゃあ……」 「ごめんなさい。私、あせってたみたい。あなたの気持ちを考えなくて……」  そのはにかむ表情は、いつの間にか、ごく普通《ふつう》の少女のそれに戻っている。さっき見せた魔性《ましょう》の表情など、嘘《うそ》のようだ。嵐《あらし》が去ったと知り、サーラはほっとした。 「いいよ」 「でも、分かって。私、こわいの。不安で不安でたまらないの。いくらあなたのことを信じたくても、信じきれない……何か証《あかし》が欲《ほ》しいのよ」 「分かってる」  サーラは彼女の頭に手をやり、髪をそっと撫《な》でてやった。 「あせる必要ないよ。僕らはまだまだ先が長いんだし——だいたい、つき合いはじめてまだ一年にもならないじゃないか」 「そうね——でも……」 「でも?」  デルは少年の腕《うで》にしがみついた。 「こんな幸せ、長く続かないように思えるの。いつかあなたが遠くへ行ってしまうような気がしてならないの——いえ、私の方が遠くに行くのかしら?」 「そんなわけないじゃないか!」  そう言って笑いながらも、サーラはふと、自分の言葉に自信が持てないことに気がついた。デルの不安が伝染《でんせん》したのかもしれない。何の根拠《こんきょ》もないのに、この幸福な時間がまもなく終わってしまうような、そんな予感がしたのだ。  そんなはずはないのに。  不安を振り払《はら》おうと、サーラはいっそう強く恋人《こいびと》を抱《だ》き締《し》めた。 「さあ、帰ろう」 「×印はどうする? 残す?」 「要《い》らないよ、そんなの」サーラは笑った。「今夜のことは二人だけの秘密《ひみつ》にしておこうよ——死ぬまで」  二人は服を着ると、また衛兵《えいへい》が来ないか注意しながら、森の中に戻った。  帰り際《ぎわ》、サーラは振り返り、もう一度だけ池を眺《なが》めた。二度とここに来ることはあるまい。誰《だれ》にも喋《しゃべ》ることはできないけれど、死ぬまで忘れることのないように、記憶《きおく》の中に深く焼きつけておこうと思った。月光にきらめくさざ波を。オープの光を浴び、水中を踊《おど》る少女の裸身《らしん》を。この少年時代の夜の、かけがえのない美しい思い出を——。 「あ……」 「どうしたの!」 「分かったよ、イオドの宝《たから》の意味が」  思い出という宝は、目には見えないし、誰にも奪《うば》えない。時を経《へ》れば色褪《いろあ》せ、忘れ去ることはあるかもしれないが、どんな腕《うで》のいい盗賊だろうと、どんな金持ちだろうと、他人の思い出を自分のものにすることはできない。  宝は誰の手にも届《とど》かないところ——それを持つ者の心の奥深《おくふか》くで輝《かがや》いている。  イオドが「宝」と呼んだ思い出がどんなものなのか、いつどこで体験したのか、サーラには分からない。しかし、きっと自分の体験と負けず劣《おと》らず美しいもので、自分の体験と同じように誰にも喋れないものだったのだろう。どんな宝よりも素晴《すば》らしい宝——その輝きを、彼は死ぬまで心の中に抱《いだ》き続けたに違いない。  今のサーラには、そんなイオドの気持ちがよく分かる。 「ねえ、どういうこと……?」  帰り道、並《なら》んで歩きながら、デルはきょとんとした様子で問いかけてきた。 「宝って何なの?」  しかし、「それは思い出だ」と言うのは、ちょっと気恥《きは》ずかしい。だからサーラは、優《やさ》しく微笑《ほほえ》み、こう言った。 「君ももう持ってるよ」と。 [#地付き]<了> [#改ページ]  データ・セクション サーラ・パル(人間、男、12歳《さい》)  器用度《きようど》14(+2) 敏捷度《びんしょうど》13(+2) 知力《ちりょく》12(+2) 筋力《きんりょく》9(+1)  生命力《せいめいりょく》12(+2) 精神力《せいしんりょく》11(+1)  保有《ほゆう》技能《ぎのう》:シーフ3  冒険者レベル:3  生命力|抵抗力《ていこうりょく》5 精神力抵抗力4  武器:ダガー(必要筋力4)  攻撃力5 打撃力4 追加ダメージ4   盾《たて》:なし          回避《かいひ》力5   鎧《よろい》:ハード・レザー(必要筋力5)   防御《ぼうぎょ》力5 ダメージ減少3  言語《げんご》:(会話)共通語、西方《せいほう》語     (読解)共通語 デル・シータ(人間、女、12歳)  器用度15(+2) 敏捷度15(+2) 知力13(+2) 筋力8(+1)  生命力12(+2) 精神力13(+2)  保有技能:シーフ3 ダークプリースト(ファラリス)2  冒険者レベル:3  生命力抵抗力5 精神力抵抗力5   武器:ダガー(必要筋力4)     攻撃力5 打撃力4 追加ダメージ4    盾:なし             回避力5    鎧:ソフト・レザー(必要筋力3)      防御力3 ダメージ減少3   魔法《まほう》:暗黒魔法2レベル(ファラリス) 魔力4   言語:(会話)共通語、西方語      (読解)共通語、西方語 [#改ページ] 初出  Role&Roll Vol.2(新紀元社) 底本 富士見ファンタジア文庫  ソード・ワールド短編集《たんぺんしゅう》 へっぽこ冒険者《ぼうけんしゃ》とイオドの宝《たから》  平成17年2月25日 初版発行  編者——安田《やすだ》 均《ひとし》  著者——山本《やまもと》 弘《ひろし》・清松《きよまつ》みゆき 他